北海道における蕎麦文化

北の国での始まりは

本州、そして南にある九州地方までは良いとしよう。日本の史実においてもまだ南までは大陸が存在していることが確認が取れていましたが、更にその先、青森や岩手を超えたその先にある北海道という話になると、少し気になるところです。当時の言い方をするのであれば『蝦夷』という言葉を用いればいいかもしれません。その地域は江戸時代の人々からしても未開の地として見られていました。極寒の地としても知られている中で、北海道の開拓が本格的に行われるようになったのは明治時代の後半となっていますが、それを踏まえて考えると北海道の蕎麦文化は本州のそれよりも短いものとなっています。こればかりはしょうがないとしてもです、ですがその後現代に差し掛かって地域を調べてみると、なんとこの北海道の地においても縄文時代の初め頃に函館市南茅部にあるハマナス野遺跡において、蕎麦の種子が発見されるという事実が発覚したのです。

どんな地域でも栽培することが出来る利点となっている蕎麦ですが、当時の厳しい寒さの中でもキチンと育つ植物として縄文時代において当時その地に住んでいた人々が蕎麦を栽培していた、という説が浮上したのです。詳しいことははっきりとしていないので何とも言えませんが、こうした事実を見れば当時北海道に住んでいた人々にとっても蕎麦は貴重な食料として扱われていたことが理解できるでしょう。

その後19世紀前半において蝦夷の地を訪れた一人の学者における著書によると、現在の北海道厚沢部町にて蕎麦が栽培されていることが確認されましたが、それは信州産の蕎麦と比べてもその味や風味においては異なる点は一つもないという事実が証明されたのです。それはつまり、日本全体において同様の蕎麦が全国で栽培されていたかもしれないという可能性を示唆することになります。大変興味深い北海道の蕎麦文化ですが、その後19世紀中頃には函館に石川屋と呼ばれる蕎麦屋が合ったとも言われていますが、その後明治時代になると小樽の地にて米山蕎麦店が開業することとなります。史実的にみれば、江戸時代に合ったとも言われていますがあくまで伝承という段階で考えると、明治時代を発祥として考えた方がまだ合理的かもしれませんね。

ですが興味深い歴史であることに変わりはないので、そういう意味では北海道の蕎麦文化もまた蔑ろにして考えていいモノではないでしょう。

北海道で主流となっている蕎麦の品種

北海道における蕎麦文化を語っていくとその品種なども地域によって様々となっていますが、最も代表的な蕎麦の品種として知られるようになるのは、1930年に開発された『牡丹蕎麦』が誕生したことで、昭和時代の北海道の蕎麦文化を形成して行くこととなります。これは平成に誕生することになる『キタワセソバ』が誕生するまで、ほぼ独占的に市場を制していた品種となっていたものとなっていますが、現在では厳守の生産そのものが行われていないため、その味を知る事はほぼ不可能となっています。味が気になるところですが、もはや市場に流通していないため情報だけが便りとなっていますが、そうした点を総括しても、牡丹蕎麦の品種はキタワセソバには遠く及ばないとまで評されています。

ではその牡丹蕎麦の後釜として誕生し、現在の北海道内で9割方栽培されている蕎麦品種『キタワセソバ』についてですが、こちらは小麦前作に適した早熟であり、牡丹蕎麦を2割上回る多収、製粉実需に評価された良食味だったこともあって生産は拡大されることとなった。そしてこの新たな北海道産蕎麦となったキタワセソバは一時期本州地方においても引く手数多となる、記録的な売上を計上することとなる出来事が発生しました。

それは1993年のこと、長雨が頻発したために各地域で蕎麦が不作となってしまったために、各地で供給に耐えられるだけの需要が得られない事態が巻き起こってしまいます。そうした中、北海道ではそこまで影響を請けていなかったことも合って、こぞって本州の業者がキタワセソバを購入することになるという、嬉しい悲鳴を上げる展開を見せるようになります。これは引いて言うなら、北海道の蕎麦文化を知らない本州の人々にも知ってもらえるようになったとしては、非常に恵まれた機会といえるでしょう。北海道の蕎麦文化でもある意味、こうした歴史的な動きがみられる一幕があったといえることが理解できます。

生産条件などについて

そんな北海道の蕎麦の生産としての品質などについて調べてみるとしましょう。お話したように、蕎麦は寒冷の地といえど、土地柄を選ばないで栽培することが出来ることから救荒食として利用することができる原点を持っていることから、極寒の地となる北海道において生産の要として利用されるようになったことについては、述べるまでもありません。また北海道の土地柄は元々、寒暖の差が激しい土地において栽培される農作物は良質なものを生産することが出来るという、農家としては品質に対してこだわりを持てるところなのも、売りなのかもしれません。

キタワセソバを作り出した平成になったばかりの頃、本州にて北海道産の蕎麦が流通するようになるなど、嬉しい悲鳴の連続をあげることが出来る瞬間だったことは考えるまでもないでしょう。ですがここで疑問に思うこと、それは生産量を本州にまで伸ばすことが出来るだけの供給量があるということです。何故そこまでして大量の蕎麦を生産するようになったのだろうと思う人は多いと思います、この話を進めていく中で、実は当時の北海道の米生産ともちょっとした繋がりがあるのです。

どういうことなのかというと、話は昭和後期の北海道にまで話を戻していきます。1971年ごろ、北海道もすでに開墾してから100年近い年月が経過して、立派に日本の土地として文化を開花させていました。広大な土地を利用しての農作物、動物達の飼育など、酪農などが盛んに行なわれていましたが、当時なんと米が取れすぎてしまったために減反政策を行われる様になったのです。単純に見ればいいことなのではないだろうか、とも考えられますが色々な事情が噛み合って、生産した米全てを流通させるには量が多すぎてしまったのでしょう。需要と供給のバランスを考えての生産活動などと言いますが、結構贅沢な問題かもしれません。そうした減反政策の一環として、それまで水田として利用していた場所をソバ畑として開墾していったことで、北海道でも蕎麦の生産が盛んになって言ったのです。

では何故蕎麦だったのでしょう、その理由もソバ畑を開墾して行く上での労働上のコスト面が非常の安価だった、ということが関係しています。蕎麦の原点を考えると、食糧危機に直面した際には非常食として活用する、それを目的としていたために栽培する量に対して面積も広大ではなくてはいけませんでした。特に北海道十勝山麓付近においては農作物の収益性が低かったこともあったため、大規模で、そして労働力もそこまで必要としないソバ畑の開墾はある意味適した場所でした。やがて蕎麦の名産地が誕生するなど北海道でもその勢いを増していくこととなり、その後に生まれるキタワセソバなどが誕生することになります。

労働力を抑えることができる、生産者としては嬉しい限りですがソバ畑の栽培は確かに農作物の中では簡単な部類に入る、と素人から見ても理解出来ます。植物にありがちな雑草の防除を想定した作業も必要とせず、また成長した後も病気にかかる心配も少なく、害虫には稀に葉を食べられることもあるといったように、低コストでありながら大規模な土地に見合った栽培と生産量を獲得できる、嬉しい限りですね。

蕎麦という食文化が北海道で広まったのはそれこそ本州よりも遅いといえど、北海道の名産主力となる農作物として台頭するまでに100年ほどで表舞台にまでのし上げられることになりました。無論本土からの影響も一理あるとはいえど、物理的なスピードで考えれば記録的ともいえるのではないでしょうか。