蕎麦が麺へと変わるとき

雑穀から麺類への進化

元を正せばそれこそ非常食として利用されていた蕎麦ですが、その後江戸時代になったことで麺状の食事として利用されることとなり、その歴史を開花させることになります。一種の進化過程の1つとなっていますが、その流れを汲み取ると人類が四足歩行から二足歩行へと進化するほど、画期的なものとして捉えることが出来なくもないでしょう。しかしそう考えて見ると、蕎麦の起源こそ縄文時代にまで遡ることが出来ると考えられていますが、麺としての蕎麦はその歴史をものとするようになってから、まだ400年ほどの年月しか経過していないのです。そう考えれば日本伝来とまではいかなくても古代から存在している蕎麦の植物が存在していたことを考えれば、浅い歴史と見なせます。

けれどそれが蕎麦そのものの歴史に大きく左右されることになる、引いて言うなら麺としての食事方法が開拓されたことによって、歴史上において大きな転換期を迎えることになったといえるでしょう。それこそ過去の歴史において、今まで非常食という重要な局面で使用される裏側の存在として利用されていた中で、表舞台に花々と広く知れ渡ることとなったと考えれば、蕎麦の歴史としては輝かしい歴史が開幕した、といっても過言ではないでしょう。

ですがそうなるまでに蕎麦は雑穀として、またはそれ以前から蕎麦餅といったものに加工することで食されていたことが、それ以前の蕎麦の利用方法となっています。そうした中で、発想の転換として開発されることとなったのが、『蕎麦切り』というものです。現代で言うところの発明品として語ることが出来るこれは、現在までに広く流通している蕎麦の原点となっています。ではそんな蕎麦切りはいつ誕生したのでしょうか?

蕎麦切りの原点

蕎麦切りの原点を確認してみる、という話をしていきたいのですが実のところ、この蕎麦切りも明確な起源の始まりに関してはいまだに特定することができていないのです。そしてなおかつ、その存在を確認するようなことになったのはすでにその食事は広く知れ渡っているときだったのです。定着するように一般的に普及し始めていた地域としては、現在で言うところの長野県塩尻市内となっており、当時の地形的な言い回しをするのであれば信濃国を中心として愛されていた、これだけしか事実として把握されていないのです。

歴史の立役者とも言える発明した人、そしてそれがいつから正式に食されていたのかなどということはいまだに分からず仕舞いとなっているのです。研究者達にとってのこの件に関しては議論の焦点となっており、その原点を探る動きとしていまだに協議をしているところとなっている。

そんな中で、1992年に長野県の郷土史家である関保男が、県南西部にある大桑町の定勝寺に保管されている『定勝寺文書』にて、『ソハキリ』という記述がされていることを発見したのです。その一文としては次のような内容となっています。

『徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」

この一文は、定勝寺の仏殿修理の落成祝いとして贈られた品物と贈答者の名前となっており、その際に徳利と蕎麦袋を『千淡内』なる人物に贈った際にしたためられたものとなっています。そして後述の『金永』なる人物が千淡内という人物に蕎麦切りをご馳走した、と推測することができるのです。

歴史的に見て快挙とも言える発見となっていますが、それ以前においては蕎麦切りが正式に登場したのは、近江の多賀大社の住職だった『慈性』が1614年に江戸の常明寺で蕎麦切りを振舞ったとなっていた。それに対して関保男が発見したこの文書では乱世の世の終焉を意味することになる関が原の戦いよりも前となる1574年に、蕎麦切りはすでに登場していたとなっていたと証明されたのです。

確たる説としては言いがたい

時期などを考えれば、定勝寺の文献によって蕎麦切りの最古の記述として考えられなくもないですが、それに納得するほどこうした学術研究者たちは妥協などしたくないものです。いかに自分の理論が正しいのかということを証明する、なんて技術も必要となるところですが、そうした反応が出るのはほかにもそれを鵜呑みにすることが出来ないとする起源節が存在しているからです。

その他の起源について述べてみると、次のような地域で開発されたことで蕎麦切りは誕生したと考えられている。

  • 中山道本山宿(長野県塩尻市宗賀本山地区)
  • 甲斐国の天目山栖雲寺(山梨県甲州市大和町)

この二件がその他の蕎麦切りが発祥したとして挙げられていた場所となっていますが、定勝寺の事を考えればどちらも紛れもない事実であるという確たる証拠もないため、真相は結局のところはいまだに分からないというのが現状となっています。もどかしいところですが、どうしてもそうした事実を定着させるためには証拠となる文献や、事実を固定するための物的証拠がなければどうしても浮ついた答えしか導き出すことはできないのです。だからこそ憶測などが頻発すると考えられますが、後はそうしたそれぞれの説を頑なに主張する人々をいかにして自分の意見へと説き伏せられるか、というところももしかしたら、関係してくるかもしれない。